自分をこの世に存在しなかったことにする方法

精神病棟を舞台にした映画『17歳のカルテ』(’99)

 

そこで主人公のスザンナ(ウィノナ・ライダー)は
多量のアスピリンとウォッカを飲んだ理由をこう話
します。

 

死にたかったんじゃない、
“消そうとした”の。

 

何か分からない漠然とした不安や違和感…
自分という存在を無かったことにしたい…

そんな気持ちを抱いたことがある方には、なんとな
く共感できる部分もあるかもしれません。

 

 

私は子どもの頃、写真や作品、文章など、この世に
自分が生きた証拠を残すのがとても嫌でした。

 

写真を撮られるのも大嫌いで、小学校の時には
やむなく、廊下に貼られた写真の自分を黒く塗りつ
ぶして怒られたり(笑)

描くことや物をつくるのは好きでも、それを形とし
て残しておくのは嫌だったり。。。

 

“自分がこの世に存在した”
その証拠を残すことを、避けたかったのです。

 

 

そんな人、いたっけ…?

 

何も生きた痕跡を残さなければ、明日空気のように
ふっと消えてなくなれるんじゃないか、
そんな幻想を抱いていました。

なので(?)部屋の引出しの中のものを、一気に
捨ててみた日もあります。

 

 

綿矢りささんが17歳の時に書いた小説『インストー
ル』(’01)にも、主人公が部屋の中のものを全て
捨てて、空っぽにするシーンがあります。

 

初めて読んだ時には「同じようなことを考える人も
いたんだ!」となんだか不思議な嬉しさがあったの
ですが、映画化もされたことから、意外と似たよう
なことを思ったり、したことがある方も結構多いん
じゃないかと感じました。

(自分の存在だったり、過去だったり、、
捨てたいものは人それぞれ違いますが)

 

 

そんな風に自分の存在を無かったことにできないか
と、若い頃は色々あがいてみたのですが、、結局
きれいさっぱり消えることはできませんでした。。

 

ですが現に生きている現在、別に物理的に無くさな
くても、もっと健全に自分の存在を消し去り、楽に
なれる手段を持つことができています。



先月も静岡のサロンの一角に、絵を描かせて頂きま
したが(壁画)今となってはこの世に何かを残す
残すことは、

分身に意識をそらして、自身の存在を無くす方法で
もありながら、私の生きる理由のひとつになりまし
た。

 

 

やはり数ある選択肢の中からご依頼いただくクライ
アントさんへの感謝の気持ちとして、作品を事故物
件のようないわくつきのものにしないためにも(笑)
制作は生きることに責任を持つ行為でもあります。

 

一人だと、ふと飛んでいってしまいたくなるような
ダメな私でも、作品や描いていた時の手の感触など
が冷静な場所に繋ぎ止めてくれたりするんです(笑)

 

wallart_painted by nina_inteviam

 

また描くことに関して「軽く、適当でいいですよ」
と言われても、そんな加減ができる器用な人間でも
ないので、がっつり気を込めてしまいます。

どんな形であれ、気を込めたものは、やはり大事な
存在になってしまいますよね。。

 

 

すごく個人的なものかもしれませんが、実は生きる
ことに後ろ向きの際、誰に頼まれてもこれができま
せんでした。

 

気持ちを込めるどころか、
鉛筆すら、持てない時期があったんです。

 

 

もし、何かを作るのが好きだった場合、そんな風に
どうしても重荷で出来ない時は、
まわりに薦められても、やりたくない中ではただ苦
しいだけなので、無理をする必要はありません。

 

ですがもし、少しでも気が進んで
文章や写真、ガラス細工やリメイクのアレンジなど
でも。。。何かを創作したり形に残してみようと思
えた時、

その分身がこの世に残る想い入れ、存在を支えると
っかかりとなり、自らの生きることを後押ししてく
れる場合もありますよ。

 

 

そしてもうひとつ、物事は取り組み方次第で
私という存在を無くしてくれます。

 

忘我(ぼうが)

夢中になって、我を忘れることです。

 

先日も「絵を描いている時何考えてる?」と聞かれ
改めて振り返ってみると、何も考えておらず…
とにかく集中していて、その間の記憶があまりあり
ませんでした。

頭の中で思い描くイメージを、手を使って表現しよ
うとしているのは私ですが、そこに自己や我の意識
は全く無いのです。

 

 

ただ、描いている。

思い返せば、それだけの世界でした。

 

 

その原理からなのか、私は一人では集中できても、
誰かと話しながらだと全く集中できません。

 

多分それは、描きながら我を忘れることができない
からだと思います。

 

言葉を使う思考回路をOFFにしていることもあり、
途中で誰かと目が合ったり、会話をすると、瞬時に
相手との関係の中で、自分のフィルターを感じ取っ
てしまうのです。

 

といってもこの話は、

「ふーん。。。で、なんでダメなの?」

という反応がほとんどで、大多数の人から理解して
もらえません(笑)

(言葉で説明するって難しいですね。。)

 

 

また、他の手段として、身体に意識を集中すること
も自我を忘れるのに役立ちます。

 

細かいことを気にしすぎたり、視野が狭くなってい
る時にヨガをすると、一旦そこから離れて気持ちが
リセットされた感覚になり、

「あ、考え過ぎが良くなかったな。。。」

と気付き、フラットに戻れることがよくあります。

 

 

描くことと同様に、ヨガの動きに集中したことで、
こんがらがった自分の頭に向いていた意識を一度全
て外に出すと、それを再インストールした際、自然
と穏やかな状態に戻っていることも実感できます。

 

視線やカウントも定められた、一連の動きを続ける
アシュタンガヨガは、常に吸う息・吐く息や全身の
動きに集中しているので、他のことが浮かぶと瞬時
に自分が何をしているのか分からなくなり、バラン
ンスを崩すことも(笑)

我を忘れるには最適かもしれません。

 

 

そこにはヨガしかなく、

なんでこの世に生まれてきたんだろう…

といった自分の存在を悩む隙もありません。

 

 

だから平穏です。

 

 

教える時も同じく、目の前の空間、生徒さんの動き、
右と左に関して(よく左右が分からなくなる..笑)
など。。。目の前のレッスンのことしか眼中になく、
完全に我を忘れています。

 

その存在感の無い時こそ、一番楽しめていますし、
反対になんか変な感じがする時は、緊張している自
分を感じ取っていたりします。

慣れない環境だとたまに緊張してしまいますが、
段々とその空間に入り込み集中していると、自分の
存在ごと緊張もどっかに行ってしまっていることが
多いです。

 

 

思い返してみると、過食嘔吐もひとつの忘我の状態
だったのかな、と今では思います。

 

“とにかく意識を吹っ飛ばして、自分という存在を
消してしまいたい”

 

そんな悩みを解消するのに一役買っていました。

 

 

以前の私は、とにかく自分をコントロールしようと
必死で、常に自己の存在が隣り合わせ、我を忘れる
なんてありえないという思考でした。

 

だから窮屈で苦しかったのです。

感じたくない自分の存在を、意識すればするほどそ
こに着目し、結果自分の悩みにばかり執着して、い
つもそこから逃げ出したいと感じていました。

(⇒見ているところが見えてくる

 

その心の願いを、健気に暴走することで、
身体は叶えてくれていたのですね。。(涙)

 

 

もし今、消してしまいたいと追い詰められる問題や
自分がいたとしたら、

それに執着しすぎていないか振り返ってみて

それすらも忘れてしまうような好きなことに没頭し
てみると、次第に薄れていくかもしれません。

 

今まで何かと表向きにコントロールをすることが多
かったりすると、一度それらを全部取り払おうとす
ることは、恐怖に感じるかもしれませんが

ちょっとやそっと我を忘れても、しぶとい元々の存
在を忘れ去ることは無く、きちんと戻ってこれてし
まうので大丈夫です。

 

まずは誰にも迷惑にならない、一人の時間からでも
意識を何か、外の他のことに向けてみてください。

 

マインドフルネスinteviam

 

また過食嘔吐やリストカットなども、今、目につい
てしまう場所ではない、もっと違うどこかに本心は
目を向けたがっているサインとして、

否定して押し込めようとするのではなく、

まだ言葉に分析できていないだけの、意思表示の現
れ、意にそぐわないコントロールの反動なんだとい
うことを、認めてあげましょう。

 

外に向ける冷静さを保とうと、自分の行動を否定し
内側にこもり続けていると、かえって全体が見えず
迷子になりがちです。

 

そして辛い時こそ、本当はあまり見たくないはずの
自己の存在が余計に際立ちます。。。

 

意識を色んな所に出し入れしている方が、相対的に
気がかりになっている原因も分かりやすく、実は冷
静に向き合う近道だったりするのです。

 

水面inteviam

 

スイカでも、花火でも、水面でも、映画でも。。。

自分を捨てて、その場に染まり、忘我の境に入った
方がその場を楽しめますし、
新しい発見が事がうまく進むきっかけになったり…
なにより目の前の瞬間が豊かだと、心が楽になります◎