自由であることは不安定でもあり、安定は制限と隣りあわせ―自然が不自然に、違和感が心地良さに変わる時

この半年間、アシュタンガヨガ108時間トレーニン
グに参加し、日々筋肉痛になりながら(笑)
集中的に身体の使い方を学んでいました。

ポーズの順番が決まっているアシュタンガヨガでは
先に進み、よりポーズが複雑になっていくにつれ、
身体(筋肉)に対して “異なる方向性” をもって作用する

使う」(縮める・鍛える)
伸ばす」(ストレッチ)
ゆるめる」(弛緩・ニュートラルに戻る)

それぞれの意識の調整、バランス力がより求められ
ることを身をもって実感します。

(アシュタンガヨガは、はじめのプライマリーシリーズでは↑この様なポーズを左上から順番に練習していきます。)

(先に進んでいくと、↓よりポーズが複雑に複合的に)


アシュタンガ・ヨーガインターミディエート・シリーズ―神話・解剖学・実践 (GAIA BOOKS)

一方向に突き進むのではなく、
押してダメなら引いてみる” 感覚でしょうか…

力づくにがむしゃらに鍛えても、やみくもに伸ばし
ていても、ただただ余計な力を抜くことだけに専念
しても壁にぶつかってしまうので、

直線状に続く一通の矢印の先をひたすら目指してい
く考え方ではなく、どこかを強めたり弱めたりしな
がら、総合的に調和に向かう円や環のイメージを、
アシュタンガヨガの練習を通して、改めて肌で感じ
ることができました。

ポーズの順番が決まっていて、毎回同じシークエンス
(繋がり・一連の流れ)、ルーティーンの中で練習を
行うことから、

よく単調な練習を地道にコツコツと積み重ねていく
イメージを持たれがちなアシュタンガヨガですが、

実は同じ枠組み(ポーズの順番)の中で反復練習を
繰り返しながら、一歩引いた、構造の外側から俯瞰
する視点で、その時々の状況に応じて中身の意識を
入れ替える
…、

今までとは違ったアプローチ”を選択する…

一見「同じ」内容をこなしているようで、意識や
方法を変える臨機応変さが求められたり、機転を
利かせるトレーニング
でもあることに日々気付かされます。

それは、普段の・いつも通りの「自然」を捨てて、
時にこれまでとは違う、違和感を覚えるような
「不自然」
な方を選ぶ練習でもあります。

例えば上手くいかないポーズの壁にぶつかった時、
今は持ち合わせていない「新しい身体の使い方」を
習得する必要があります。

それは今の時点ではまだ扱いに慣れていない動作
で、ピンとこないし、やりづらい…、
初めは心地良さよりも“慣れない違和感”の方が、
大きく感じても無理はありません。

ですが習得してしまえば、それは「自然」にできる
動きとなり、身体に馴染んでいけば「違和感」も
消え、心地良さを感じられるようになります。

そして、かつての身体感覚で「快」と感じていたこ
とが、身体が新たにアップデートされたことで
「不快」に感じるようになることもあるんです。

(↑個人的な見解ですが、
ヨガを長く続ける方と、始めて間もない頃の違和感
や抵抗感を負担に感じ、やめていく方との分かれ目は、

この「不快」「快」に(「違和感」「自然や
心地良さ」
に)変わるまでの身体感覚の変化を楽し
めるかの違いにあるような気がしています。)

例えば、背中を丸めて同じ体勢で動かずにいること
身体が慣れ親しみ、それが「楽」「当たり前」、
「自然」、「快」
となっている場合…

最初は重い腰を上げて、今までの習慣になかった
ヨガを練習することが「頑張ること」、「特別な
こと」、「不自然なこと」
で、

基本的に、恒常性(ホメオスタシス)と言う、
生命維持の為に本能的に一定の状態を維持しようと
する
働きが備わっている人の身体は、変化を嫌がる
側面があることからも、

慣れないことに「抵抗」「違和感」を感じ、身体
「不快」と認識することも珍しくありません。

ですが、何度か練習を繰り返すうちに、その新しい
習慣や回路に慣れて、身体感覚が新しくなると、
「動いた方が心地良い!」と、ヨガで身体をほぐす
方が「」となり、それまで楽で自然だった、身体
に負担のかかる同じ姿勢でいることが、段々と不自
然で「不快」に思うようになってきます。

ヨガに限らず、他の技術やスポーツなどにおいても
同様だと思うのですが、練習を続けていると、
その身体感覚や身体の使い方は更に変化が進みます。

最初に触れたアシュタンガヨガでも、その時々の
状況に応じて、今までの意識とは真逆のことをして
アプローチを変えることもあり、

この動き、ポーズは〇〇を〇〇する意識で行うのが正解

〇〇は快と感じるべきで、誰にとっても心地良い

不快=悪なので、〇〇するのは間違っている

などの“絶対的な一つの正しい答え”は存在せず
時と場合に応じて優先したい内容に合わせた最適・
最良の方法を選んでいくことを、日々の練習から教わります。

(同時に何か上手くいかない時こそ、

“〇〇だったはず”“〇〇で合っているはず”

と、その状況下では最適ではない考えに固執してい
たことに、気づかされることも多々あります。。)

時に今の時点で、一番やりやすい自然な方法を
一度封印
して、

独自の癖で動かしやすい筋肉ばかりを使い、本来
働かせたい場所が使えていない時には、ある意味
不自然に」、動かし方をコントロールしたり、

より効果を高めるために、「楽」な範囲を超えた
領域に飛び込むなど、

(「鍛える=負荷をかける」という言葉にも表れ
ているように、今の能力で楽にこなせる以上の
適度なストレスをかけることで、強化や成長に
繋がります)

今までの、いつもの自然体とは違う意識を加える
練習を繰り返していくことは、違和感や摩擦、
抵抗感を吸収しながら、自分のものにしていく、

意識化できる範囲や自分が心地良くいられる領域
を拡げていく練習でもあります。

私はそんな風にヨガをする中で、出来なかったこと
が出来るようになっていく、変化の過程を感じられる点や、

身体に意識を向けることに夢中になって、囚われか
ら解放されている時間や、一通り練習を終えた後の
爽快感、身も頭もリセットされたようなニュートラ
ルな状態に戻れる感覚
に特に魅力を感じ、

それを “自然にかえる感覚” として捉えていました。

ヨガに対して「自然」という言葉との結びつきに
なんとなく親しみのような、勝手にしっくりくる
印象を持っていたのです。

が、、、

今回のトレーニングで、
ヨガはむしろ「不自然」なことの方が多くて

その「不自然な要素こそ、必要不可欠」だと
いうことに、今更ながら気付きました。(笑)

よくよく考えればそうですよね。。

前に、美容院でヘッドマッサージをしていた頃、
お客様から言われたこともありました。

ヨガってなんであんな下ばっかり向いているの?
なんか…、楽しそうに見えないのよ。

確かに・・・。

ヨガを日常的にやる方にとって、ダウンドッグの
ポーズは違和感なく馴染みがあるものだと思います
が、普段やらない方や初めて見る方からしたら

「え、何であんな変な格好をしてるんだろう・・・」

と疑問や抵抗を感じるのも、無理はありません。

(△ダウンドッグのポーズ)

ヨガをすることが当たり前になっていると、
ついその感覚を忘れてしまいそうになりますが、
日常動作の延長として見れば、かなり不自然な格好
として捉える方が自然とも言えるヨガの動作。

そんな風に、日常ではなかなか行わない「不自然」
な動きをするからこそ
、普段の生活の内では凝り固
まってしまう筋肉を使い、ほぐし、深い呼吸や血液
の再分配、新しい身体感覚や視点でものを視る機会
として役立ち、「特異な」ヨガ独自にある良さを
実感できることを改めて認識しました。

(これは私が知らないヨガ以外の世界にも同様に、
様々な分野で未知の独立した、魅力的な世界が
広がっているんだと思います。)

こういった「自然」「不自然」のそもそもどこに
基準を置くかの違いや、長所や短所など、それも
その時々の状況で流動的に変わることを再認識し始めると、

やはり物事は白か黒かの2択・一方的な直線の世界
ではなく、正解も不正解も無い、グラデーションや
その変化、比重のバランスの中で成り立っている
ことを改めて体感することができます。

私は元々極端な白黒思考を持っていて、以前に比べ
れば少しずつ、間の諧調が増えてきたかなーと感じ
ていたのですが、、

まだまだ無意識のうちに、何気ない言葉に対して

善悪の色を付け加えている

部分があったことに気付きました。

良い・悪いと判断することは、決して悪いことでは
ありません。(←ややこしい笑)

ただ、良いとされることが良い、悪いとされている
ことが果たして本当に悪いのか、時代の移り変わり
の中でも、それらは変わっている不確かなもので、

私の例でいえば、「自然」に対してプラスに
ひいき目で見ていたら、「不自然」にあるメリット
に目がいきにくくなってしまうこともあるので、

どちらかが良い・悪いという枠は取り払って物事を
見た方が、自由な選択肢が増えることは確かです。

「自由」そのものにも

私は映画「ショーシャンクの空に」のシーンのよう
な、解き放たれる、プラスのイメージばかりを
持っていたのですが、

本来は良いものでも悪いものでも、何でもない

んですよね。。

例えば、ヨガの話で「」に置きかえて考えてみた時、

耳と肩を近づけて肩甲骨を上に持ち上げるようにし
た方が、肩まわりの「自由度」は上がり、腕や首は
回しやすくなります

しかし、自由になるということは、同時に制限を無
くし「不安定」さが増すことでもあるので、
肩まわりが自由に動いてしまうポジションは、
逆立ちや腕立て、アームバランスなど、身体を安定
させて支えるポーズには不向きとなる側面もあるんです。

※※余談※※

昔の私もそうだったのですが、これまでにもヨガのレッスンで様々な身体の悩みを聞いていると、

なんとなく

【良い姿勢=肩を下げる】

という思い込みで、わざわざ肩を必要以上に下げ、自ら首や腕の可動域を制限し、「動かしづらい」「腕が上がらない」「首が回らない」…と不調を作り出しているケースがよくあります。

ではなぜ、わざわざ動きづらい姿勢を「良い姿勢」と思い込んでしまったかを辿ってみると、、

恐らくほとんどの人が子どもの頃に、よく分からないまま教育など集団行動の場で、所謂「良い姿勢」=「気を付け姿勢」を教わったかと思いますが、

実はこうして「ビシッ」と身体に制限をかけた直立姿勢の方が、生徒や部下側は常に少し自由を奪われた状態で、とっさに反撃しにくくなることから、どうやら秩序を守りまとめるため・服従させるために有効な手段のひとつだったことに関係しているようです。

もちろん、昔の「気をつけ」姿勢ほど制限をかけない背筋を適度に伸ばした姿勢は、身体にメリットももたらしますが、上下関係・力関係の厳しかった時代や、現代でもそういった立場を重んじる環境下においては、

先生や教官、上司や先輩などの上に立つ立場の人が、過度な「気をつけ」姿勢をとらせることで、暗黙のうちに力関係をコントロールしやすいという、ある立場に都合の良い裏事情・側面が垣間見えてきます…。

これ以上はここでは割愛しますが(笑)、もしなんとなく過度に身体を緊張させる姿勢を、現実の身体の声を無視して「良い姿勢だから、これが正しいはず…」と思い込んでいたとしたら、どこかで疑うことなく教わったり、叩き込まれた記憶が染みついている可能性があり、それはもう手放して良いものかもしれません。。

肩の自由度の話に戻して、、

「自由」になればなるほど、「不安定」さが増す
2つの力関係は、表裏一体であるため、

反対に「安定」を求める場面では、肩甲骨を下制
して(=耳と肩を遠ざけるように下げて)「制限」

をかけると肩関節は安定し、身体を支える強さ
生まれ、ぐらぐらせずに姿勢を支えやすくなります。

(↑肩をぐらぐらしないように安定させるためには、制限をかけ不自由にする
(=肩を下げる)とバランスがとりやすくなります。

逆にこの体勢で肩まわりが自由に(=耳と肩を近づける状態)なってしまうと、
不安定さが増し、バランスが取りにくくなります。)

身体だけでなく、他の分野においても、

“自由”であることは、同時に“不安定”な反面もあり
“安定”には、“制限”がつきもの で。。。

どれが良い・悪い、正解・不正解というものは無く

その人にとっての、その時の、その場面で
目的に合った丁度良いバランスをとりながら、
皆それぞれ望む結果を得ていくのではないでしょうか。

そしてその基準は他の誰かが操作できるものではな
く、腑に落ちる塩梅は、最終的にその人にしか調節
できない
もので、あらゆる角度から模索しながら
最適なものを選び、決めていくしかないのだと思います。

そんな風に先入観で善悪を決めず、分け隔てなく、
色んな方向から物事を見て考えていきたいと、
思っていた最中・・・

友人と初めて西新井大使に訪れる機会があったので
記念におみくじを引いてみました。

すると、まさかの

(いずれもわろしって、ワロシw(笑)ってことか
なぁと、一緒にいた友人と色んな解釈を試みる)

これは…受け取り方も試されますね。。(?)

(その日、スイーツも友人も1枚の写真に収めたいという
よこしまな心で慣れない自撮りをしたら全て写らず…
願望叶い難しでした…)

でもやはり「凶」のALL希望が持てない言葉の並び
を見ると、調子に乗らずに、まわりに期待せずに、
自分で気をつけなきゃと、現実を見るようになりますね(笑)

邪な心…気をつけます。。。